昭和40年07月28日 朝の御理解



 天体地体の神秘性合楽の御造営に関して

 今朝から私、あのこんなお夢を頂いておった。小倉の初代桂先生のご推薦を頂いて、ある大学の教授に私がならせて頂かにゃならんというお夢だった。私ごたるとがその大学の先生が勤まるだろうかと。して大体その、どう言う様なその、科目を受け持つのでしょうかと、私は大変それが心配なんですね。
 ところがその、小倉の初代の桂松平先生というのが、実際はあの小倉の富永先生です。「私がおるから大丈夫です、心配しなさらんでようございます。」何かこう四角な帽子をかぶってこう、庇のなんか付いた様な帽子をかぶってですね、何か黒い教衣のようなのを着せられてから、そしてその大変難しいこう字引のような、そのあれを本を持って、持っておられますもん、で私にその本を渡されてから。
 今日はあの、大坪先生あなたは、「天体地体の、神秘性について。」という講義をなさらなければいけません(笑)と言う様な事だった。はあそんなら私は得意ですからと、ちゅって私が申し上げますから、ところがその、大体その私あの、数学が全然できませんですが、そういう時には、どんなふうになりますでしょうかちゅったら。言いました。「そん時にゃ私が、ちゃんと教えますけん、よう御座います」ちゅって言いよんなさる、様なお夢だった。
 そん時はそん時でその、又なんとか教えて、教えさして頂きますと。そういう一方の不安を感じさせて頂きながら、一方にはそれは私の得意だからと言うて、大学の教授を受け賜わらせて頂こうと。そうしたら今度は富永先生のお母さんです。奥の方ちょっと案内させて頂いてから、これがあの助教授、教授の教授いわゆる先生方の、住まいなのが鉄筋コンクリートで、その鉄筋コンクリートと言うても、そりゃもう見事な何か、緑一色のそのあれができておってですね。
 あの何段目ぐらいに、先生あなたの、お住まいが出来るんですよと。と言うてその現在、建設中のお家を、案内して回って頂いておるところであった。それから、私いろいろ思わせて頂いたんですけれども、大学の先生を、しなければならないということは、さしずめ椛目のご信者さん方は、大学生と言う事になるのじゃないだろうかと、私は思う。言うなら、皆さんが大学生なら、まあ学校で言うならば、最高の学問を、身につけておいでなければならない。
 もう小学校、中学校、高校、言わばその過程を終えられて、そして大学に進学した、だけの言わば学問は身についておらなければならない。信心でいろいろ大学と言う様な、程度の高度な所の信心というのは、どう言う様な信心だろうか。私は得意として、皆さんに、講義をする、聞いてもらおうという「天体地体の真理性について」と言った様なその事柄というのは、大体どう言う様な事だろうかと。
 御取次を頂いて、お願いをさしてもろうて、神恩報謝の生活をさしてもらうと、大体そう言う様な事をお道の信心に入らせて頂きますと、聞かせて頂くので御座いますけれども、その神恩報謝の生活が真実できるということ。本当の心からそれができると言う事。ということになると、これは大変難しいことだと。一通りの話を聞かせてもらえば、神様のおかげでお生かしのおかげを頂き、神様のお恵みを受けなければ。
 はあ私共の生きることすら、出来ない私達であると言う事を分からせて頂くので御座いますけれども、真実なるほど生かされて生きておるんだなと言う事が分かる。そのためには、どう言う様な信心、どう言う様な学問をさして頂いたらそれが真実、分からせて頂くだろうかと。ここんところをひとつ、問題にしなければいけないと思う。皆さんそこんところをどういうふうにお考えになるだろう。
 それから私まあヒントを得たんですけども、今度のご造営の例えば内殿・外殿という、または御結界と、御結界の間と言った様なもの。本当にご結界の間らしいご結界の間。外殿らしい外殿、内殿らしい内殿には、どうしてもひとつそんな神秘性を持たせなければいけないと言う事を感じました、ね。何とはなしにです、別にねどうと言う事はないのだけれども、何とはなしにご神前にぬかずかせて。
 ぬかずかせて頂くのに、自ずとぬかずかなければおられないと言った様なものがです、このお広前全体にそういう雰囲気ができなければならないと。現在の椛目で去年でした、誰だったでしょうか、私があのお昼下がらしてもらう時に、羽織袴を取らせて貰う時に、私の羽織、袴をその方が畳んで下さってから、「まあ先生、あなたの袴はこんなに」いわゆる教会初めから私それをはいてるんです。
 もうぼろぼろに、もうとてもはけないと言う様なものですけれども、今日私がはいてるんですが、「先生、あなたがお履きになっておると全然破れを感じません」と言われた。まあ実際、何時も取ってみたらもう、本当にもうちょっと引きゃあもう破れるように、ぼろぼろになっておる。けど先生がおはきになっておるとそれを全然、感じないのはどうしたことでしょうか。
 というようにです例えば椛目で皆さん、こうやって御理解を頂いて下さっておる時に、はあやかましかなあ、自動車がどんどん通ってから、がちゃがちゃいうちからやまかしか、勝手の方ではまた、子供達がこの学校、今こそ夏休みで御座いますけれども、もう勝手はガタガタいうておるのが手に取るように聞こえる。で椛目のお広前は、ああやかましゅうていけん、というふうには皆さん、感じられない。
 ほどにです例えば、私の説かせて頂くところの、言わば講義にですね。ひとつの神秘性を持っておるということ。例えばテープならテープで聞かせて頂いておりますと、なるほど、自動車の雑音、子供達のガヤガヤいうておるのが手に取るように聞こえておるのだけれども、実際あそこで一心になってご理解を頂いておる時にはそれを聞こえない。それを感じさせないほどのひとつの神秘性を持っておる、ね。
 そう言う様な例えば状況の中にならです、ね、もう名実ともに雑音も遮絶するだろう、ね、家庭のごちゃごちゃもう、聞こえんですむような、お広前にです、今度私共が移転をさして頂くのである、ね。住宅というたらずっと長い廊下を向こうの方へ行かなければ私共の住まいの方には行けないような、お広前と言うたら、言わばあれだけの高層なお広前が出来てしかも、このバス通りからずっと上の方へ到った所、ね。
 愈々その神秘性をまあ作っていく雰囲気が生まれて来るであろうとね。そこでただ今までは私の信心によって、そう言う様なものをまあ言わばここ維持して来たというのですけれども、これからはです大学生である所の皆さんの勉強の仕方が整然として、成程大学生らしい勉強のが身に付いて、皆さんの信心の一人一人の雰囲気の中から、そういう神秘的なまでの、雰囲気が身に付いて来なければいけんのではないだろうかとね。
 言わば、言おうとしたことがひとつになって、かもすところの雰囲気、なるほど助かりの場としてのふさわしい場、ね。助かりの場としての、信心の稽古に通わして頂くということの場としてのです、なるほど信心の稽古をさして頂くということになればです、ああいうようなふうに心の持ち方も考え方も、ね。この実意丁寧、態度ひとつの上にもそれが感じられるというようなものがです、私は大学生の皆さんの一人一人の上に身についてこなければいけないと、ね。
 そこに初めて進学してくる人達がです、「なるほど、なるほど」と合点していくような、いよいよ雰囲気がです、いよいよ椛目のひれいになるだろう、いや天地の親神様の願いであるところの、難儀な氏子の助かっ、取り次ぎ助け合うていくということの場が、いよいよ実現していくことになるだろう。ね。まず私はご造営、今度のご造営のことについては、そう言う様なふうにまあ今朝から感じるのです。ね。
 皆さん言うならば大学生、ね。成程大学生。小学生やら中学生では分からない、言わば信心の不可思議極まる世界に、もうそれを感じ取る事の出来れる信心ね。ただ信心には拝むだけではいけないと、ただお取り次ぎを頂くだけではいけないね。一心に頼ましてもらう一心に拝まして頂く事によってね、他力の信心を身に付けて行くならね、もう愈々おかげが和賀心にあるという、自力の信心がひとつになって融和していくね。
 しかもそれはどう言う様な、信心の進め方によって、その信心が進められていくかというと、私共と神様との繋がり、私どもと天地の繋がり、いわゆる天体地体の神秘性についてということが椛目では一番、強調されておる。それを理屈抜きに体験さして頂くのは、ね、成り行きを尊ばせて頂くということ。「行く雲流れる水」神ながらなその、受け方ね。自然のそうしたひとつの働きというものをです、合掌してまたは元気な心でそれを受けぬかして頂くところの修行。
 そこに天体地体の神秘なまでの、不思議なまでの働きと繋がりとを感じる事が出来る。自然の働きと私どもとにはこういう微妙なことにまでひとつの繋がりをもっておるものだということを、それを例えば椛目で皆さん、繰り返し頂かれたわけでしょうが、ね。これが中心にならなければならん、ね。そしていよいよ「信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞ」と教えて下さるようにです、ね、当然当たり前。
 頂けれる。それを誰かが見たり聞いたりしたら、または私ども自体でもです、不思議と言うてはならんと仰せられるのだけれども、不思議でたまらんと言う様なおかげを、私共身辺に現していかなければならないね。そのためには先ず皆さん、天体地体の神秘性をです、どの程度に身に付けていかれておられるだろうかとね。どの程度に成り行きを皆さんが大事に尊ばして貰い、大切に取り扱うていかれておるであろうかね。
 先日久富さんところの国雄さんが、お届けしておられますように、ね、大水につかったどろ芋を市場に出された。それこそ目も当てられんような、無残だったと。もちろん油代もでないというような状態であったと。しかも帰りには警察に捕まって、罰金を取られなければならないと、言う様な事にまでなった。言わば泣き面に蜂である。言わば踏んだり蹴ったりである。
 但しそれは大水にしろ、ね、皆が言わば、沢山そのために出荷されたと、言う様な事にしろ、帰りのスピード違反に引っ掛った事にしろ、自分が引っ掛ろうと思うたり、安ければ良かがと思うて、した事でも何でもない。成り行きの言わば、市場にもそれは働きの中に、そうあっただけの事なのである。自分の都合の良いことは合掌して受けるけれども、それを踏んだり蹴ったりの時には、これだけ信心しておるのに、どうしてだろうかと言った様な受け方をする。
 もう踏んだり蹴ったりとは、もう目も当てられんと言うて、不平不足を言うて帰る。時に、国雄さんの心の中に、ひらめいたもの。それは家の場合おやじはどげなふうにして受けるじゃろうかと、自動車の中で思うた。もう何か一切が、家のおやじの場合はおかげがっちゅう。神様のご都合ぞと。家のおやじならそう思うだろうと思うた途端に、不思議に自分の心の中に感激が湧いてきた。
 もうすでに天体地体のね神秘性が現れて来る。その神秘が現れてきた。不思議にその感激というか喜びというか、嬉しいやら悲しいやら分からんと、言う様なそう言う様なものはです、もう是は理屈ではないのである。踏んだり蹴ったりの中にね、そう言う様なものが湧いて来ると言う事が、実に不思議な事であると。しかもその不思議な事がです、私共が一度体験さして頂いたらね、痛いとも感じなければ痒いとも感じないね。
 馬鹿らしかとも思わない。神様のご都合として、それはおかげぞとして受けて行く事が出来るという、不思議な働きが自分の心の中に頂けて来る様になる。こんな不思議な事はないじゃないですか。そういう不思議なまでの自分の心の展開というか、変わり方というか、ね、是がおかげなのである。以来私の方にはこんなに高く売れても良いだろうかと、同じ人と一緒に出さして頂いて、甲の人が言わば100円であるならば、本当に家のはその倍で言わば買うてもらえれると言う様にです、おかげが現れておる。
 これはその不思議な心の転換に、いわゆる「おかげは和賀心にあり」と仰せられる、その和賀心に神様が、ね、ついておられなければおられないほどの、おかげを見せて下さるのである、ね。そこのところのです、信心の教義が理屈で分かっただけではできんのです。日頃一生懸命の信心ができる。日頃、一生懸命のの信心修行がさして頂けて、そこに焦点を置いての稽古が成されておらなければ、いよいよ事という時にです、寂しくなったり、腹が立ったりするのである、ね。
 どんなに不思議な雰囲気を椛目でかもす、その中心になる私でもです、木石ではないのであるから、ね、やっぱり蚊に刺されれば痒い。ね、暑い寒いも感じる。腹が減りゃあひもじいのである。ね。そういう中にですそう言う様な事柄の中に、私は信心を分からして頂かなければならんということ。涼しゅうしてから、ね。暑いも寒いもない、自分の気分が良か時にできる信心と言った様なものは、だから大した稽古にはならないと言う事。暑い寒いね、痛い痒いを感じる時私はね、そのその受け方がです。
 こういう受け方ではおかげにならん、そこに言わば身の修行があり、ね、繰り返し繰り返し、信心の稽古を怠ってはならないと言う事になって来るんじゃないでしょうか。そういう例えば信心、これはもう私は大学生でなければ分からないところ。まあ言うなら椛目の独断上と言うてもよいところ。成程椛目の先生、なら講義いわゆる、するかと言うたら、すの事だろうと。「天体地体の神秘性について」と。
 と言う事ならばです、はあそれなら私の得意のところであるとこう、私が思い夢の中で思うておるようにその得意のところ、皆さんもやはり得意となされなければならない。大学言うならそういう、意味合いでも系統の大学であるということ椛目は。それに一般で言われるところの、御取次ぎを頂いて、信心の稽古をさして頂くということが、ね、一心に頼むと言う事。一心に御祈念をすると言う事。一心にすがると言う事。
 これは有限力にすがると言う事で、なのであるから、これは他力の信心を本気で身につけていかなければならない。信心が実るということは拝むということより大事だということを分からしてもらうと同時に、ね、いわゆる「おかげは和賀心にあり」という、自分の心次第でおかげが変わってくるという自力の信心が身に付いてくる。そして、椛目の信心の中心をなすもの。
 それを皆さんが体得しておいでられると言う事がです、愈々皆さんの身辺にです、成程、大学生だと、ね。不思議なまでの雰囲気がです、皆さんの一人一人の上にも現れてくるような、おかげがです、雰囲気ができてくることを私は確信する。そう言う様なものをもって私共は、合楽教会に移っていかなければならないというふうに、思うのです。
   おかげを頂かねばなりません。